アンディ・ウォーホル
洋画家
『ポップ・アートの巨匠、アンディ・ウォーホル』
アンディ・ウォーホルといえばマリリン・モンローを描いた作品を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?ポップでカラフル、感傷を排除して機械的に描くクールな作風が特徴のアンディ・ウォーホル。しかし、その作品の裏には、コンプレックスに悩む繊細な感性を持った生身の人間がいたのです。
それではポップ・アートの巨匠、アンディ・ウォーホルについて紹介しましょう。
アンディ・ウォーホルとは
20世紀のアメリカで活躍した芸術家、アンディ・ウォーホルはポップ・アートの第一人者です。芸術家以外にも商業イラストレーターや実業家としての顔も持っていることで知られています。
芸能人や政治家の姿を描いた作品や、コカ・コーラやキャンベル・スープなど身の回りのものを羅列して描いた作品を多く制作しており、これらのほとんどにはシルクスクリーンという20世紀に生まれた新しい技術が使われています。大衆文化と深く結びついた彼の作風はのちの人々に大きな影響を与えました。
自らをプロデュースする力にたけており、アイドル的存在としても当時の人々からもてはやされていたアンディ・ウォーホル。芸術家としての彼の華やかな生活は数々の伝説に彩られていますが、彼のプライベートについて、その真実は意外に知られていません。(出生日や出生地さえ、諸説あります。)
ポップ・アート
ポップ・アートとはポピュラー・アートの略称で、大衆芸術という意味です。大衆文化の中に存在する、身の回りにある何気ないものを絵画、彫刻の領域に取り入れる芸術様式のことをいいます。
ポップ・アートは1960年代の初めごろからニューヨークを中心に大きく発展していきました。アンディ・ウォーホルの他にも、マンガのひとコマを拡大して精密に描いたロイ・リキテンスタインも有名です。
この頃のアメリカは、大恐慌や経済的な不安定さを乗り越えてやっと訪れた、商業的・工業的な黄金時代を謳歌していました。辛い時代を経験した人々にとって、ウォーホルの制作する身近な日用品などを描いた作品は、富や幸福のシンボルとなったのです。
アンディ・ウォーホルの作品について
さて、ポップ・アートの巨匠、アンディ・ウォーホルはどのような作品を作ったのでしょうか?
ウォーホルの用いたシルクスクリーンとは
ウォーホルは作品を制作するときにシルクスクリーンの技法を好んで利用しました。シルクスクリーンとは、布目のあらい絹布の上からインクを押し出して制作する技法です。印刷をしたくない部分には、紙などを切抜いて絹布に張り付けたりして「目止め」をし、インクが染みださないようにしました。
当初絹布を使っていたためにシルクスクリーンと呼ばれるようになりましたが、現在では化学繊維などを用いることもあります。均一な色を広範囲に塗ることができるのがシルクスクリーンの特徴です。
ウォーホルは「ファクトリー」というアトリエに貧しい若者や芸術家などを集めて、分業制でシルクスクリーンの作品を作ったといわれています。
アンディ・ウォーホルの代表作
アンディ・ウォーホルはピカソに次ぐといってよいほど非常に多作な芸術家ですが、そのなかから代表的な作品をいくつか紹介しましょう。
キャンベル・スープ缶
1962年に制作された『キャンベル・スープ缶』はウォーホルの初期の傑作です。それは体が弱かった幼いころのウォーホルに、母親がよく飲ませていたものでした。
この作品はシルクスクリーンの技法が用いられるようになる直前のものなので、まだ手書きで描かれています。キャンベル・スープ缶をいくつも羅列して描いたこの作品。このような手法は、対象物を数多く羅列することによって、対象物がもともと持っている意味から切り離し、別の意味を持たせるという効果を狙っています。
マリリン・モンロー
ウォーホルがマリリン・モンローをモデルに選んだのは、1962年に彼女が薬物の過剰摂取が原因で亡くなった後のことでした。誰もが一度は見たことがあるであろう、ウォーホルのマリリン・モンローは生前の写真をもとに制作されたもので、たくさんのヴァリエーションが存在します。
華々しい名声と悲劇的な結末によって伝説ともなったマリリン・モンローは、アメリカにおける大量消費社会の暗部に興味を持っていたウォーホルにとって、取り上げずにはいられないテーマでした。これらの多くの作品は、シルクスクリーンで制作されています。
アンディ・ウォーホルの生涯
アンディ・ウォーホルは、スロバキア系移民の両親のもと、1928年にアメリカのペンシルベニア州で生まれました(出生日、出生地については諸説あり)。
病弱な少年時代
震えを伴った発作があったり色素が抜けてしまったりする病に苦しめられた、少年時代のアンディ・ウォーホル。病気のせいで同級生からからかわれることもあったため、容姿は彼のコンプレックスとなっていきました。内向的な少年であった彼は、ハリウッドの俳優たちの写真がのった雑誌を夢中になって読みふけって少年時代を過ごしたといいます。
幼いころに父親を病気で亡くしているために経済的に苦しい生活を強いられたウォーホルですが、素描が得意だった彼は奨学金をもらってカーネギー工科大学に進学。ここで商業美術を学び、デザインの魅力に目覚めます。
商業デザイナーとして活躍した日々
デザイナーになるためにニューヨークへ向かったウォーホル。すぐに雑誌『グラマー』からイラストの注文を受けました。それからも『ハーパーズ・バザー』や『ヴォーグ』などの雑誌を次々と手がけます。グラフィック・デザインで賞も獲得し、経済的に安定した生活を送れるようになりました。
ウォーホルがトレードマークともいえる銀髪のかつらをかぶるようになったのはこのころです。また、コンプレックスであった容姿も整形し、自己プロデュースにも力を入れるようになります。
ポップ・アートの世界へ
ウォーホルが30歳を過ぎた頃のこと、現代社会の目まぐるしい変化の中で彼のイラストは次第に時代遅れとなり、注文が来なくなってしまいました。また、描いた絵が永久に保存されるような芸術家になりたいとも思っていたウォーホルは、商業デザイナーから芸術家へと舵を切ります。1962年に発表した『キャンベル・スープ缶』で、彼は初めて芸術家として世間に認められることができました。
ウォーホルは、1964年に広いアトリエへ移ります。このアトリエは「ファクトリー」と名付けられ、彼のパトロンや俳優、若い芸術家、麻薬密売人などが入り乱れるサロンのようになっていきました。ファクトリーでの分業制により、短期間に多くの作品を生み出すことに成功したウォーホルですが、ある日ファクトリーの常連であった女性に銃撃されるという事件が起こります。
事件後はファクトリーは閉鎖され、「オフィス」と名付けられた仕事場に移ることとなりました。このころには、ウォーホルの代名詞ともいえる、写真からのシンプルなシルエットに鮮やかな背景を組み合わせた、有名人の肖像画を多く制作しています。
晩年のウォーホル
ポップ・アートの第一人者としての地位を確立したウォーホルは、1980年代にはテレビや公の場に姿を見せることが多くなりました。また、新進芸術家のジャン=ミシェル・バスキアと世代を超えた友情を育み、色鮮やかな作品を共同制作しています。
1987年、胆のう手術の後の合併症により、ウォーホルはこの世を去りました。ウォーホルの訃報はトップニュースとなって世界中を駆け巡り、葬式には著名人や友人などが多く集まったといいます。
多くの伝説を生み出したアンディ・ウォーホル
「アンディ・ウォーホルのすべてを知りたいなら、僕の絵と映画、僕の表を見さえすればいい。そこに僕がいる。裏には何もない。」
これはウォーホル自身が残した言葉です。内気で繊細な内面を隠して、クールで華やかな現代人を自己プロデュースしていたアンディ・ウォーホル。彼は本当の自分を隠しミステリアスな雰囲気をつくることで、その作品の価値を高めていたということもできるでしょう。
現代の大衆社会における物質的豊かさを表現したアンディー・ウォーホルの作品。彼の言葉にならうのならば、面倒なことは考えずに作品のもつポップな色彩と現代的な雰囲気をそのまま受け入れて観賞するのが、最もクールな楽しみ方と言えるのかもしれません。