加山又造
日本画家
『戦後の日本画壇を支えた「現代の琳派」、加山又造』
加山又造が日本美術学校を卒業したとき、当時の日本画壇を揺さぶっていたのが日本画滅亡論です。日本画の存在価値が問われたこの厳しい時代において、加山又造は日本画の在り方を問い、新しい時代の日本画を模索し続けました。
持ち前の柔軟な発想力と謙虚な人柄で、あらゆる芸術様式を取り入れ吸収し、戦後の日本画壇を支えた加山又造という日本画について紹介します。
加山又造とは
加山又造は昭和2年(1927年)に京都市で生まれた日本画家です。伝統的な日本画に西洋風の表現や画面構成を取り入れたことで知られています。また、琳派風の様式美の追求にも力を注いだことから、「現代の琳派」と呼ばれることもあります。
謙虚でひたむきな性格だったといわれる加山又造は、さまざまな分野の芸術を研究し、おおよそ10年弱のスパンで取り上げるテーマを大きく変えながら自らの芸術を高めていきました。晩年は作品制作のために噴霧器やエアブラシなども導入し、現代における日本画の可能性を模索しました。その柔軟な発想から生まれる多くの作品は、優美な装飾性と独特の世界感を持っており、大変人気となっています。
加山又造が生きた時代
加山又造は戦後間もない昭和24年(1949年)に東京美術学校を卒業しました。この頃は、敗戦というつらい経験を経て自由主義や民主主義が一般市民に迎えられ、その反動として伝統的なものが否定された時期でもあります。特に戦意高揚のために用いられたこともあった日本画は、戦後激しい批判にさらされたのでした。
日本画滅亡論はこのような時代背景のもとで生まれました。日本画は生々しい生活感情を描くことがなく、現実感のないきれいごとの世界を描くだけであり、現代絵画として存在する意味を持たないとまでいわれたのです。
日本画を取り巻くこのような厳しい状況に危機感を持った画家たちは、新しい日本画を模索するためにさまざまな試みを行いました。創造美術という美術団体の結成もそのひとつです。創造美術は新しい時代の日本画を創り出すことを目的に結成された美術団体で、又造が在学中から師事していた山本丘人らが中心となって活動していました。又造は創造美術研究会に出席し、仲間とともに新時代の芸術を追求しました。
又造がその画家人生のなかで、自らのスタイルを大きく変化させながら理想とする芸術を模索したのは、このような厳しい時代の中でなんとか日本画を現代絵画として世間に認めさせたいという強い気持ちがあったからなのです。
加山又造が生きた時代
それでは、加山又造の作品にはどのようなものがあるのか紹介します。
加山又造の作風の変化
加山又造は、おおよそ10年弱のスパンで取り上げるテーマを大きく変えていきました。大まかに見ると4つの時期が存在するので、それぞれの時期の特徴を見てみましょう。
1.動物を集中的に描いた初期の又造
初期の又造は、馬、鹿、狼などの動物をテーマとした作品を制作しました。ラスコー洞窟壁画や北方ルネサンス絵画、キュビズムなどを研究したり、実際に上野動物園に写生をしに行ったりしながら描かれたこれらの作品からは、西洋絵画の影響が色濃く感じられます。弱肉強食の世界で、自由にたくましく生きている動物の姿は、厳しい現実に立ち向かう又造自身の姿のようにも見えてきます。
2.琳派的な表現を取り入れ始めた時期
動物をテーマとする作品を描いたあと、昭和40年(1965年)以降には装飾性のある華やかな屏風絵を立て続けに制作します。これらの作品にみられる、対象となるものの本質のみを取り出して様式的に描く方法は、琳派などの古典作品を学ぶことで身に着けました。さらに又造は、そこに独自の解釈を加えることで自分のものとして昇華させたのです。この頃は草花や山水などの琳派的な主題が多く描かれました。
3.女性美を描く
もともと裸婦そのものをテーマとして描く習慣がなかった日本画ですが、加山又造はあえてそこに挑戦してみせました。そこに描かれるのは生活感のある肉体ではなく、透明感をもった「美」そのものといってもよいでしょう。又造は様式化の追求をさらにすすめ、女性の肉体が持つ美しさの本質を抽出し、それを表現することに力を注いだのでした。
4.水墨表現への情熱
又造は若いころから、鮮やかな色彩の絵とモノクロ調の色彩を抑えた絵を交互に描くことが多かったようです。このようなモノクロ調の作品制作が、晩年には水墨画表現として開花。中国からやってきた水墨画に日本らしい優美な装飾性を加えることで、水墨画の可能性を探りました。この頃には草花や龍などを描いた作品が制作されています。
版画や工芸作品も
加山又造は絵画作品だけでなく、版画や陶磁器、着物や帯、ジュエリーのデザイン、自動車のデザインなども幅広く手掛けています。その作品の数々を見ていると又造の多才ぶりに驚かされる人も多いでしょう。これらには、日本画にみられるような彼独自の美意識が存分に反映されているのが特徴。今泉今右衛門などの有名な陶芸家との競作もいくつか残しています。
加山又造の生涯
加山又造は昭和2年(1927年)に京都市で生まれました。父親は西陣織の衣装の図案師、祖父は日本画家。幼いころの又造は身体が弱かったため、よく父の工房に入り浸ってひとりで絵を描いて過ごしていたそうです。
学びの時代
父や祖父の血を受け継いだ又造は早くから才能をあらわし、画家になることを夢見ていました。父は初めは反対しましたが、又造の意志の固さに折れ、京都市立美術工芸学校の入学を許します。京都市立美術工芸学校で学んだ後は、東京美術学校日本画科に進学。しかし、戦争の激化に伴って勤労動員を受けて過ごすようになります。
戦争が終わって間もなく父親が病死したため、自分や母、そして3人の妹の生活のために働かなければならなくななります。又造は東京美術学校で学びながら、クラブのポスター描きや玩具売り、パンフレット作りなどさまざまなアルバイトをするようになり、非常に苦しい生活を送るようになりました。
画家としての本格的な出発
東京美術学校を卒業後、昭和24年(1949年)に又造は第2回想像美術展に『風神雷神』
を出品しましたが、落選。これを機に奮起した又造は、創造美術研究会に欠かさず出席するようになり、当時の日本画が置かれていた厳しい状況を知ることとなりました。
この頃の又造は、さまざまな西洋絵画から当時日本画に足りないといわれていた造形性や画面構築のテクニックを吸収しながら、動物をモチーフとする作品を制作しました。
様式化を追求する日々
動物をモチーフとする作品をしばらく作った後、今度は琳派からの影響がみられる作品を作るようになりました。その後も又造は取り上げるテーマを次々に変えながら、自らの芸術を深めていきます。日本画としては珍しいといえる裸婦や晩年に描いた水墨画など、さまざまなテーマに挑戦して多くの名作を残しました。
デザイン性、装飾性が優れており、独特の世界観を持つ加山又造の作品。このような特徴から「現代の琳派」とも呼ばれるようになった又造は、平成16年(2004年)に76歳で亡くなりました。
新時代の日本画とはどうあるべきか、模索し続けた加山又造
加山又造は、戦後の厳しい時代にもまれながら、常に日本画とは何か、日本画とはどうあるべきなのかを問い続けました。真摯な態度で自らの理想とする芸術を追い続けた加山又造は、戦後の日本画壇を支えた大切な存在といえるでしょう。
伝統を重んじながらも新しい表現様式を貪欲に吸収し、自らの芸術として昇華させた加山又造の作品からは、謙虚でひたむきな人柄がうかがえるようにも感じられます。加山又造の優美な装飾性と独特の世界感を持つ作品は、いまも現代人の心を魅了してやみません。