熊谷 守一

『波乱万丈な生涯を自由に飄々と生きた画家、熊谷守一』

  

熊谷守一は、その穏やかでどこか品のよい作品からは想像できないほどの、波乱万丈な人生を送った画家です。親が残した莫大な借金を背負わされ、貧しさのうちに5人中3人の子どもを亡くしてしまうなどのつらいできごとを経験しつつ、熊谷守一はどのようにしてあの穏やかなモリカズ様式を確立していったのでしょうか?

今回は明治から昭和にかけて生きた洋画家、熊谷守一について紹介します。

 

熊谷守一とは

 

熊谷守一は、独特の風貌と飄々とした生き方から「画壇の仙人」ともいわれた岐阜県生まれの洋画家です。同期であった青木繁らを押さえて東京美術学校洋画家選科を首席で卒業した才能ある画家であったにもかかわらず、その絵のすばらしさが認められるようになるまでにはかなりの時間がかかり、長らく貧しい生活を強いられました。

人から好かれる人物であった熊谷守一は、たくさんの友人から援助を受けながら制作を続けました。初期の熊谷守一はフォーヴィズムの影響を受けた力強いタッチの作品を制作しましたが、後期には形態と色彩の単純化を推し進め、独自のスタイルを確立しています。

純粋さや素朴な美しさが感じられるモリカズ様式で描かれた作品は、今でも多くの人から愛されています。その作品からは、欲がなく子どものように自分の気持ちに素直に生きた熊谷守一の生き様を感じ取ることができるでしょう。

  

 

熊谷守一の生涯と作風の変遷

 

それでは熊谷守一の生涯やモリカズ様式に至るまでの流れを見てみましょう。

 

若き頃の熊谷守一

 

熊谷守一は明治13年(1880年)、岐阜県の山間部にある付知(つけち)村の裕福な家庭に生まれました。

事業を営み、のちに市長にもなった父親から目をかけられ、跡取りにと考えられていた守一。父親から大反対されつつも、なんとか説得に成功して画家を目指すこととなります。晴れて東京美術学校の西洋画科選科に入学し、仲間たちと充実した学生時代を送っていた守一ですが、在学中に父親が莫大な借金を抱えて急死。それに伴って守一も数億円分もの借金を背負うこととなります。

守一は東京美術学校を首席で卒業後、友人の紹介で樺太調査団における記録画家の仕事に携わります。また、第3回文展に『蝋燭(ろうそく)』という作品を出品。暗闇の中で実際にろうそくをともして自分の顔を描いたというこの作品において、守一は褒状を受けています。

その後、母の死をきっかけに付知村に戻り、約5年間を故郷で過ごしました。この期間は馬の世話をしたり丸太を運んだりする仕事をしており、経済的にも苦しい生活であったためか、作品制作はほとんど行っていません。

 

フォーヴィズムの影響を受けて

 

友人に肖像画を描く仕事を紹介してもらった熊谷守一は、約5年間の空白の時期を経て再び上京します。美術学校時代の友人で面倒見が良かった斎藤豊作から毎月の生活費の援助も受けながら、守一は制作に励みました。

この頃、新しい美術様式フォーヴィズムに魅了された守一は、フォーヴィズム風の作品を制作するようになっていきます。代表的なのが大正5年(1916年)の『赤城の雪』です。この作品は友人とともに訪れた赤城山で見た景色を描いたもので、これまでの写実的な描き方とは異なり、フォーヴィズム風の力強いタッチで描かれています。 

また、大正11年(1922年)に守一は18歳年下の秀子と結婚。その後5人の子どもに恵まれました。しかし、この頃斎藤豊作が渡仏したために月々の援助がなくなり、貧しい生活の中で5人の子どものうちの3人を亡くすこととなります。

 

赤い輪郭線の登場

 

昭和7年(1932年)、秀子の実家からの援助を受けて豊島区に自宅を新築して住むようになります。体の弱い子どもたちにちょうどよい、日当たりのよい家でした。守一はこの家で生涯暮らすこととなります。

転居後しばらくたった頃、守一の絵に赤い輪郭線が現れます。昭和11年(1936年)に描かれた『山形風景』や昭和15年(1940年)に描かれた『谷ケ岳』などに見られるこの輪郭線は、後のモリカズ様式へとつながっていくこととなりました。

  

画家としての地位を確立

 

57歳になるとき、熊谷守一は友人からのすすめで日本画を描き始めます。その後陸軍、海軍への献金展に日本画の作品を出品。それをきっかけに日本画を描くことに夢中になり、友人の手配で初の個展を開催することになりました。この頃から画壇からの注目も集まり始めます。

その後も地道に制作を続けた守一は、徐々に形態と色彩の単純化を推し進め、次第にはっきりとした輪郭線と平塗りされた色面が特徴のモリカズ様式を確立していきました。昭和35年(1960年)に描かれた『岩殿山』や昭和36年(1961年)に描かれた『雨滴』、昭和35年前後で描かれた『猫』のシリーズなどが広く知られています。

守一の評価が高まっていくのに比例して関係者との交流が増えて、にぎやかな生活となっていきました。しかし、76歳のときに軽い脳卒中が彼を襲い、それ以後は外出を控えて自宅の中で生活を送るようになります。動物や植物など命あるものをこよなく愛した守一は、自宅の庭でさまざまな生物を観察してはそれを作品にしていきました。

守一の作品を並べたたくさんの個展や展覧会が行われるようになり、84歳のときにはパリの画廊でも個展が開催されて大成功を修めます。96歳のときに故郷である付知村に「熊谷守一記念館」が開館。開館翌年の昭和52年(1977年)に、熊谷守一は肺炎でこの世を去りました。

 

 

熊谷守一の魅力

 

画壇の仙人ともいわれた熊谷守一は、人から好かれる性格であったともいわれています。彼が持つ人間的魅力とは、どのようなものだったのでしょうか?

 

熊谷守一の人柄

 

熊谷守一の実家は、裕福ながら家庭環境は複雑だったようです。事業をやっていた父親に見込まれた守一は3歳の頃に母や祖母から引き離され、父の経営する大規模な製紙工場に隣接する家で、父の2人の妾やたくさんの使用人らに囲まれて生活するようになりました。

守一は妾のうちのひとりを「おかあさん」と呼ぶように育てられたそうです。当時について、守一は著書『へたも絵のうち』のなかで次のように述べています。 

「そんなことで、私はもう小さいときから、おとなのすることはいっさい信用できないと、子供心に決めてしまったフシがあります。」

また、父の事業を習っていくうちに、逆に「どうしたら争いのない生き方ができるだろう」という考えに取りつかれていったとも振り返っています。

このような家庭環境が、守一の生き方に影響を与えたともいえるでしょう。繊細な心を持つ若い頃に大人の世界を知り過ぎてしまった守一は、それに反発するかのように無欲で子どものような素直な心を持ったまま生きることとなったのでした。

争いを嫌う穏やかな性格の守一は多くの友人から好かれ、まだ経済的に苦しかった時代にも多くの人が彼のことを助けたということが知られています。

   

音楽を愛好していた熊谷守一 

 

熊谷守一は、その生涯において音楽にも心惹かれていました。30歳半ばで友人の和田三造からヴァイオリンをプレゼントされたときには、うれしくて家に着くまで待ちきれず、電車の中でヴァイオリンを弾き始めるほどだったといいます。

独学でチェロやヴァイオリンを弾き、音楽仲間と夜通し語り合うこともあった守一。40歳では作曲に挑戦し、43歳のときには絵画制作もそっちのけで、1年をかけて音の振動数の計算に熱中しました。

音楽仲間の中でも、特に28歳の時に出会った作曲家の信時潔とは親友とも呼べる間柄だったそうです。熊谷家の長男黄が信時家の長女はる子と結婚したということもあり、その交流は生涯続きました。

 

  

心のままに素直に描き続けた熊谷守一

 

自宅に引きこもって暮らした晩年の様子や長いひげ、飄々として欲のない性格などから「画壇の仙人」とも呼ばれた熊谷守一。彼は動物、昆虫、草花、山、裸婦など命あるものを題材として多くの名作を残しました。 

純粋さや素朴な美しさが感じられる彼の作品を見ていると、生活していくうえで逃れることのできない小さな摩擦を忘れ、自由な子供時代に戻ったかのようにホッとする……そのように感じられる方も少なくないはずです。

色彩と形態を極度に単純化させ、はっきりとした輪郭と平塗りの色面で構成された熊谷守一の作品には、素朴な美しさやあたたかみがあります。そんな彼の作品は、日常の中でたくさんの摩擦を抱えた現代人の癒しとなってくれるのです。