山本丘人
日本画家
『詩人の心を持つ情熱的な日本画家、山本丘人』
19世紀フランスの詩人マラルメは、バレエを「身体で描くエクリチュール(文字)」と表現したそうですが、その言葉を借りると絵画は「絵筆で描く文学」と表現することもできるのかもしれません。
今回は文学を愛し、情熱的に自らの芸術を追求し続けた日本画の巨匠、山本丘人について紹介いたします。
山本丘人とは
山本丘人は、東京生まれの日本画家です。大きく画風を変化させながら制作を行いましたが、特に戦後に制作した力強い描線を持つ作品は「ますらおぶり」、「現代の漢画」といわれて大変な人気を得ました。
一方晩年には抒情性の高い繊細優美な作品も制作し、「ますらおぶり」とは対照的な女性的な作品も残しています。まるで物語の中の一コマを描いたかのような晩年の作品からは、自ら「文学青年くずれ」と称していた山本丘人らしい一面を見ることができるでしょう。
日展の審査員としても活動し、昭和52年には文化勲章も受章している日本画の巨匠、山本丘人。弟子には加山又造や毛利武彦などがいます。
作品の特徴と魅力
山本丘人の作品にはいくつかの特徴がありますが、そのうちのひとつが師、松岡映丘から学んだのであろう、画材を扱う際の卓越した技術です。丘人は東京美術学校在学中から同校の教授であり大和絵の権威であった映丘に師事していました。
丘人はのちに「大和絵の方こそ先生の言うとおりにならなかったが、実技の方では多くのことを吸収したと思う」と語っています。
全盛期に描かれた「現代の漢画」
山本丘人が全盛期に制作した、ダイナミックで男性的な漢画風の作品は「ますらおぶり」と評されて大変人気となりました。「ますらおぶり」とは江戸時代の国学者、賀茂真淵が万葉集の魅力を語った時に使った言葉で、「男性的でおおらか」という意味です。
この時期に制作された作品は、直線的な太い描線でダイナミックに描かれているのが特徴。生き生きとしたエネルギッシュな魅力を持っています。
これらは師、松岡映丘の大和絵とは異なる漢画風の筆さばきで描かれた作品ですが、画材の扱い方などからは映丘から学んだ高度な技法が見て取れます。
※大和絵(中国唐代の絵画表現をもとに、それを日本風に昇華したしたもの)
※漢画(中国宋・元代の水墨画などの絵画表現をもとに、それを日本風に昇華したもの)
晩年の詩情豊かで繊細優美な作品
晩年には、「現代の漢画」とよばれた作品群とは対照的に、大和絵的な繊細な美しさを持つ作品も制作しています。これらの作品は風景や人物を描くことにより、それ以上の何かを暗示しているかのような象徴的な表現が特徴となっています。
まるで物語の中の一節を描いたかのような世界観がこれらの作品の魅力。幻想的な雰囲気に心を惹かれる方も多いことでしょう。
顔の見えない女性像
山本丘人は女性を描いた作品をたくさん制作しています。丘人の描く女性は、初期の作品を除いて、顔がはっきりと描かれていないことが特徴です。それらは後姿であったり、横顔であったり、正面を向いていたとしても塗りつぶされたように表情が見えなくなっています。一体なぜなのでしょうか?
実は丘人を育てた両親は、本当の親ではなかったという説があります。本当のことは山本丘人のみぞ知る、ということにはなりますが、もしかしたらこれらの女性像には本当の母親への切ない思いが込められているのかもしれません。
山本丘人と文学
山本丘人は自分のことを「文学青年くずれ」と表現していました。特に象徴派の詩人、萩原朔太郎が好きだったようです。
「日本近代詩の父」と呼ばれる萩原朔太郎は、それまでの伝統的な定型詩ではなく、口語自由詩の作品を発表したことで知られています。そのどこか暗くて孤独な世界観に惹きつけられたのは丘人だけでなく、宮沢賢治などにも影響を与えました。
また、丘人は昭和11年に「海の微風」という作品を発表していますが、フランスの詩人マラルメも同じタイトルの詩を発表しています。一説によると、丘人の作品はこのマラルメの詩をヒントにして制作されたのではないかといわれています。
マラルメは、『半獣神の午後』という作品で有名な象徴派の詩人。余談ではありますが、ドビュッシーの名曲『牧神の午後への前奏曲』は、マラルメの詩からインスピレーションを受けてできあがったといわれています。
こうしてみると絵画、文学、音楽など全ての芸術は、一続きにつながっているのだということを、改めて考えさせられます。
山本丘人の生涯と作風の変遷
最後に、山本丘人の生涯をたどるとともに、作風の変遷を追ってみましょう。
山本丘人は明治33年に東京に生まれました。父親は東京音楽学校で事務の仕事をしていたそうです。大正8年に東京美術学校に入学し、その後、教授の松岡映丘に才能を見出されて映丘が主催する画塾「木之華社」に参加するようになります。
丘人は木之華社で学びながら、杉山寧ら若い日本画家と共に新しく「瑠爽画社」を立ち上げ、日々研鑚に励みました。
初期の山本丘人
日本画家として駆け出しのころの山本丘人は、決して順風満帆とはいえない日々を送っていました。帝展での落選が何年も続いた時期もあります。
しかし昭和11年、文展監査展で「海の微風」が選奨(帝展でいう特選)を受賞し、丘人はようやく日本画壇に広く認められるようになりました。「海の微風」は海を遠くに眺める若い女性の後ろ姿を描いた、爽やかで気品ある作品です。
山本丘人の黄金時代
第二次世界大戦終戦後、自由主義や民主主義が一般市民に迎えられるとともに、その反動として伝統的なものが否定される時期が訪れました。特に戦意高揚のために用いられたこともあった日本画は、戦後激しい批判にさらされます。
この苦境に立ち向かうために、山本丘人やその仲間が集まって創造美術という美術団体を結成しました。昭和23年に結成された創造美術は新しい時代の日本画を創り出すことを目的としており、のちに弟子の加山又造もこの中に加わります。
創造美術は昭和26年に新制作派協会と合併、創造美術は新制作協会日本画部となりましたが、丘人が先に述べた「現代の漢画」と呼ばれる作品群を制作し始めたのはこの頃です。昭和30年に制作した「北濤」は、荒々しい岩肌や波しぶきをダイナミックに表現したまさに「ますらおぶり」な作品であり、丘人の代表作といえるでしょう。
晩年の山本丘人
山本丘人が70歳に差し掛かるころ、これまでの「ますらおぶり」とは打って変わって、抒情的で繊細な女性的ともいえる作品を制作し始めます。風景や人物を描いていながら、それ以上の何かを暗示しているかのような象徴的で夢幻的な世界観を持ったこれらの作品。「現代の漢画」とは一味違った魅力を楽しむことができるでしょう。
昭和61年に急性心不全で亡くなった山本丘人の絶筆は、未完成でタイトルも不詳となっています。春らしき川岸を描いた4曲1隻の屏風の左下に、非常に小さく描かれた白い服の女性。一体丘人はどのような場面を描こうとしたのでしょうか?想像力がかきたてられる、謎めいた作品です。
自らの理想を情熱的に追い求めた山本丘人
師、松岡映丘が主催する画塾「木之華社」に参加していた頃のこと。上下関係や礼儀作法に厳しい修練の場で、若かりし山本丘人は胡坐をかいてたばこを吸い、自由奔放な姿で参加していたそうです。他にも、師につけてもらうのが一般的である画号を、映丘の「丘」の字を取って勝手に作ってしまい、映丘からは事後承諾を受けたということも。
そんな一見破天荒ともいえるような性格でありながら、映丘からとても可愛がられていたという丘人は、さぞかし人間的魅力の深い人物だったのでしょう。
その作風を大きく変化させながら、自らの理想とする芸術をひたむきに追い続けた山本丘人。丘人独特の趣のある作品は、さまざまな魅力をもって私たちを楽しませてくれます。