パブロ・ピカソ
洋画家
『誰もが知っている20世紀の巨匠、ピカソ』
ピカソといえば、あのインパクトのあるキュビズムの作品を作った画家として、知らない人はいないでしょう。
一見難しいようにも感じられるキュビズムですが、実はピカソが目指していたのは「子どものように描くこと」。ピカソは既成の概念にとらわれず、子どものように自由な発想で制作することを生涯の目標としていました。
それでは、20世紀最大の巨匠、ピカソについて紹介します。
ピカソとは
ピカソはスペイン生まれの芸術家。幼いころから絵画に対する優れた才能を発揮しましたが、ピカソにとっては伝統的な絵画表現は物足りないものでした。そこでより自分らしい絵画表現を探求し、青の時代、バラ色の時代を経て、キュビズムの表現方法に到達しました。
キュビズムとは、それまでの常識であった「ひとつの視点から対象物を見て描く」という考えを捨て、あらゆる視点から対象物を見て、それをつなぎ合わせることによって表現する描き方をいいます。
類まれなる創造性に恵まれたピカソは、それからも新古典主義やシュルレアリスムの表現を取り入れながら、次々と画風を変化させていきました。しかしながら、彼の興味の中心には一貫して人物がありました。人物こそが彼の主要なテーマだったといえるでしょう。
また、奔放な女性遍歴でも有名で、ピカソの恋人としては7人の女性が知られています。のちに結婚をしたオルガとジャクリーヌを含む7人の女性は、それぞれがミューズとなってピカソの作品に大きな影響を与えました。
ピカソは自由奔放な生き方のかたわらで多くの作品を生み出し、最も多作な芸術家としてギネスブックにも登録されています。そしてのちの芸術家に多大な影響を与えた存在として知られています。
ピカソの生涯と画風の変遷
パブロ・ルイス・ピカソは1881年にスペインのマラガで生まれました。美術教師で画家でもあった父の手ほどきを受け、ピカソの才能は早くから開花。16歳になるとスペインで最も権威ある美術学校に入学します。しかし、すでに伝統的な技法を身に着けていたピカソは型にはまった指導に満足できず、学校をやめてバルセロナに自分のアトリエを構えるのでした。
この頃、ピカソはカサヘマスという画家と友だちになります。彼らはパリとバルセロナを行き来しながら自らの目指す芸術を模索しました。アカデミックな絵画とは異なるロートレックやセザンヌなどの作品に出会ったのはこの頃だといわれています。
以来ピカソはさまざまな人や芸術様式に影響を受けながら、10年弱で次々と画風を変え、自らの芸術を追求していきました。
青の時代
1901年に友人であるカサヘマスが自らの命を絶ちます。このことに大きな影響を受けたピカソは、青みがかった暗く陰鬱な色調で、寄る辺のない人々の絵を描くようになりました。これをピカソの青の時代といいます。
バラ色の時代
パリに移り住んでからはフェルナンド・オリビエとの交際が始まりました。その影響からかあたたかみのある色彩が使われるようになりましたが、描かれる主題からはまだ憂鬱な気分がわだかまっているようにも感じられます。
キュビズムの時代
しばらくするとピカソは、アフリカのプリミティブアートやセザンヌの影響を受けて『アヴィニョンの娘たち』を制作します。ピカソが初めてキュビズムの表現に挑戦したのがこの作品。これによりピカソは一躍時の人となりました。
時を同じくしてピカソは画家のジョルジュ・ブラックと出会います。意気投合したふたりは協力してキュビズムの表現を追求していきました。
新古典主義の時代
第一次世界大戦がはじまったころ、ピカソは前衛芸術家のグループに加わりました。このような交流を通じてバレエダンサーのオルガ・コクローヴァと出会います。
オルガはピカソの最初の妻。彼女は「私を描くときは私とわかるように描いてほしい」とピカソに言ったため、ピカソの画風はキュビズムから新古典主義的な、写実的な画風へと変わっていきました。
シュルレアリスムの時代
1920年代になると、ピカソはシュルレアリスムに惹かれていきます。そして作品には幻想的で神話的な生き物が登場するようになりました。
シュルレアリスムとは、理性を排除することによって先入見から離れ、無意識の思考を表現するという運動のことをいいます。フロイトやマルクスの思想を基盤として発展していきました。
ピカソは第二次大戦中はパリで過ごしましたが、晩年は南仏の南仏のヴァロリスという村で創作に励みました。また、60代半ばでジャクリーヌ・ロックと2度目の結婚。91歳で亡くなるまで、彼女に励まされて精力的に活動を続けたといわれています。
ピカソが好んで取り上げたモチーフ
ピカソの作品によく出てくるモチーフをいくつか紹介しましょう。
女性
ピカソはその画家人生を通して、自分の恋人をモデルとした作品をいくつも制作しました。その作品を見ていると彼の恋愛遍歴がうかがえるほどです。
バラ色の時代からキュビズムの時代にかけてはフェルナンド・オリビエ、新古典主義の時代には妻オルガ、シュルレアリスムの時代にはマリー・テレーズがそれぞれミューズとなり、彼の創造意欲をかきたてました。2人目の妻ジャクリーヌの肖像画も多く残されています。
道化師
ピカソは特にバラ色の時代から新古典主義の時代にかけて、道化師や道化師に扮した人物の作品を多く制作しています。道化師を自分と重ねて、大衆のための孤独なエンターテイナーと考えていたピカソ。ピカソは道化師に強く心をひかれていました。
牛や鳩などの動物
人物以外にも牛や鳩などがピカソの作品の中にはよく登場します。
牛は幼いころに父に連れられて闘牛を見に行ったときから、数多く描かれています。シュルレアリスムの時代以降には、情欲や暴力、または恐怖の象徴として牛頭人身の怪物であるミノタウロスもよく取り上げられました。
スペインの小都市ゲルニカをナチスが無差別爆撃した事件を受けて描かれたピカソの代表作『ゲルニカ』にも、牛ともミノタウロスともとれる動物が描かれています。
反対に、鳩は平和の象徴として描かれました。末娘にもパロマ(スペイン語で「鳩」という意味)という名前を付けているので、きっとピカソは鳩が好きだったのでしょう。ピカソの版画作品『鳩』は、パリで開かれた平和擁護世界大会のシンボルに選ばれています。
彫刻や陶芸の作品も
あまり知られていませんが、ピカソは絵画以外に彫刻や陶芸の作品も数多く残しています。
ピカソが初めて彫刻に取り組んだのはパリに出てきて間もなくの頃。初めの作品は粘土を使ったものでしたが、その後もブロンズ、木材、石こうなどさまざまな素材を使った彫刻に挑戦しています。
また、ピカソは戦後たびたび南仏を訪れるようになりますが、ヴァロリスという村の陶器市を訪れたときに陶芸のおもしろさに目覚めます。ついにはヴァロリスにアトリエを構えて移り住み、この地で多くの陶芸作品を残しました。
ピカソは、彫刻や陶芸においても絵画と同じように人物や動物をテーマとして制作することが多かったようです。ピカソのあふれる才能は、絵画作品だけにはおさまりきらなかったのでしょう。
子どものように描こうとしたピカソ
「ラファエロのように描くのには4年かかったが、子どものように描くのには一生かかるだろう。」これはピカソ自身が言った言葉です。この言葉の通り、ピカソは伝統的な絵画の描き方を若くして短期間で身に付けました。
しかし、伝統的な絵画技法では、彼の現代的で優れた感受性を表現するためには不十分だったのでしょう。ピカソはあらゆる先入観を取り払い、子どものように自由な発想で制作することを生涯の目標としていました。そのために用いられたのがキュビズムやシュルレアリスムといった新しい表現方法なのです。
ピカソは次々に画風を変えながら、自らの表現を追求し続けました。類まれなる創造性と独創性を持ったピカソは、まさに「天才」と呼ぶのにふさわしい存在。ピカソはのちに続く芸術家たちに多大なる影響を与えた20世紀最大の巨匠といえます。