杉山寧

 

『2つの才能を持つ天才日本画家、杉山寧』

  

日展三山という言葉をご存知でしょうか?日展三山とは、日展(日本美術展覧会)を中心として活躍した3人の日本画の巨匠、東山魁夷、杉山寧、髙山辰雄のことをいいます。

彼らはそれぞれのやり方で己の芸術を追求し、戦後の日本画壇を牽引したことで知られています。名前の中に「山」の字が入っているという共通点を持つ3人の日本画家は、いつしか尊敬の念を込めて日展三山と呼ばれるようになりました。

今回は、そんな日展三山のうちのひとりである、杉山寧について紹介します。

  

 

杉山寧とは

 

杉山寧は、類まれなる描写力と大胆で知的な画面構成が魅力の、昭和の日本画家です。東京美術学校を首席で卒業後、戦後に訪れた日本画への逆風と戦いながら自らの芸術を追求しました。

抽象表現への挑戦や、旅行先で得たインスピレーションなどを取り入れながら独特の表現方法を獲得。対象物を清らかに、そして大胆に切り取ったその作品現在においても人気が高く、多くの人に愛されています。

  

 

杉山寧の作品の特徴と魅力

 

それでは杉山寧の作品について、もう少し詳しく見ていきましょう。美術評論家の福島繁太郎や河北倫明は、杉山寧には2つの才能があると述べています。

 

写実性

まずひとつめの才能が、写実性です。杉山は対象物を真摯に、誠実に見つめ、真実の姿を的確にすくい取る力を持っていました。このような描写力は、杉山寧の恐ろしいほどの集中力に支えられていたといいます。

同じく日展三山のうちのひとりである髙山辰雄は、一緒に写生に行ったときに杉山の恐ろしいほどの集中力にとても驚いたのだそうです。同じ画家である髙山でさえ驚くほどの集中力。杉山寧の表現力は、このような対象を見つめる厳しい目によって実現したのでした。

  

構成力

杉山のもうひとつの才能が構成力です。日本画の伝統からすると奇抜ともいえる大胆な画面構成は、杉山作品の大きな魅力。これは対象物を写実的に描写するというだけでなく、対象物を最も生き生きと表現するためにはどのような画面構成を用いるべきかという知的な計算によって成り立っています。

このような2つの才能、つまり写実性と構成力を最大限に用いて作品を制作することで、「永遠の美」ともいえる悠久的な美しさ、独特の静けさや清らかさを持つ作品が生まれたのです。

 

  

杉山寧の生涯と作風の変遷

 

杉山寧は画家人生において、何度かその作風を大きく変化させています。それでは杉山の生涯を辿りながら作風の変遷を見てみましょう。 

杉山寧は明治42年に、東京の浅草に生まれました。父は文具商でしたが、その父を5歳の時に亡くしています。中学校卒業後に日本画を1年ほど学び、昭和3年に東京美術学校に入学しました。

 

  

華々しいスタートと沈黙の時代

杉山寧は東京美術学校在学中から帝展(帝国美術展覧会。日展の前身)に作品を出品し、何度も入選、そして特選を受賞しています。美術学校を首席で卒業後していることからも、彼のすばらしい才能が垣間見えるでしょう。

若き頃の杉山は、浦田正夫、山本丘人らとともに「瑠爽画社」というグループを作り、仲間と共に新時代の日本画を探りました。このグループには、日展三山のうちのひとりである髙山辰雄も少し遅れて加わっています。しかし瑠爽画社は、杉山が肺結核の病を得たことをきっかけに5年もたたずに解散してしまいました。

闘病中の杉山には作品の発表が難しかったため、次の作品の発表までにはしばらく時間があきます。ちょうど第二次世界大戦とも重なる暗い時代の出来事でした。

 

返り咲いた杉山寧

戦後の昭和26年、日展に『エウロペ』を出品。日本画壇に返り咲いた杉山は、それ以降毎年日展への出品を続けました。

また、次第に対象物を写実的に描写するということに加えて、そこに自らの心象をいかに投影していくかということに心を砕くようになっていきます。そのような試みはやがて抽象作品の制作へと進んで行きました。

  

杉山寧の抽象画

昭和34年の『仮象』という作品を皮切りに、抽象作品の連作が発表されます。杉山の抽象画が他の作家のものと異なるところは、あくまでも杉山が実際に目にしたものをもとにして、その対象物を象徴的なフォルムに純化させて表現しているというところです。例えば『灼』は阿蘇山の火口のイメージをもとに作られました。

杉山はこのころから絵肌の質感にもこだわり始め、絵の具に細かい砂を混ぜるなどの工夫を行うようになります。

 

  

永遠の美を求めて 

昭和37年に抽象画の集大成『黄』を発表したのち、杉山は古典に美を求めてエジプトやギリシャに旅行しました。このときにスフィンクスやピラミッドなどと対峙して得られた大きな感動は、のちに数々の名作を生み出すこととなります。

その後杉山は裸婦などの人物画にも目を向けながら制作を続けましたが、昭和53年に再び海外へ。このときに訪れたのが、トルコの秘境カッパドキアです。火山の影響で形成された奇岩が見渡す限りに連なる光景から杉山は大きな衝撃を受けたといいます。この衝撃が杉山芸術の最高峰ともいわれるカッパドキアの連作を生み出す原動力となりました。

 

エジプト連作

杉山はエジプト旅行の後に、エジプトを描いた作品群を制作しました。これらは抽象画時代における絵肌の質感の研究を生かして制作されています。悠久の歴史を超えて現代に存在するエジプトの遺産を描いた『悠』や『穹』、エジプトの地で日常を送る人々を静かに描いた『水』などがあり、これらの作品は力強い存在感と重厚な美しさで知られています。

 

カッパドキア連作

複雑な形状の奇岩がまるできのこのように連なっている、カッパドキアの風景。この世のものではないかのようなこの独特の風景が、杉山の心を鷲づかみにしたといいます。

特に、かつて人が住んでいたのであろう窓の彫られた奇岩を描いた『嵤』、月明かりに照らされた奇岩を静かに描いた『嵓』、満月に向かって山のようにそびえ立つ灰色の奇岩を描いた『盈』からは、厳かで悠久的な美しさが感じられ、杉山芸術の最高峰にふさわしい大作となっています。

 

  

日展三山のうちのひとりとして活躍した杉山寧

 

「絵画は、決して実在するものの再表現ではない。実在するもの以上の生命感をもって訴えかけるものが創作できなかったら、描く行為の意味は空しい。」

これは杉山寧の言葉です。対象物を厳しい目で見極めて写実的に描き切る力を持っていた杉山は、さらにそこに自身の心象を投影した生き生きとして大胆な構成を用いることによって、こちら側へリアルに迫ってくるような芸術作品を生み出しました。杉山のエジプトやカッパドキアの連作を見ていると、そのリアルさや存在感に圧倒され、まるで実際に旅行に行っているかのような気分になるという方もいらっしゃるでしょう。 

日展三山のうちのひとりとして戦後の日本画壇を牽引し、世界中の美からインスピレーションを得ながら、新しい時代の日本画を模索した杉山寧。彼の作品は没後20年以上たった今でも多くの人から愛され、大変な人気を得ています。