横山大観

『日本画界に革命をもたらした画家、横山大観』

  

19世紀フランスで印象派が誕生したとき、当時の画壇からは揶揄と侮蔑をもって迎えられたのをご存知でしょうか?このように新しいものに非難はつきものといえますが、日本画壇においても同じような現象が起きたことがありました。それが「朦朧体」の作品が発表されたときです。

それでは、朦朧体を生み出した横山大観とその作品について紹介いたします。

 

横山大観とは

 

横山大観とは、明治から昭和にかけて近代日本画壇を牽引した画家です。20歳の頃、父の友人で画家の結城正明から3か月絵を学んだだけで東京美術学校に合格。若くして優れた才能の持ち主であったことが知られています。

当時、東京美術学校で校長を務めていた岡倉天心の「大学の上に大学院があるように、美術学校においても美術院の設置が必要」という考えにもとづいて、大観は日本美術院の結成に参加。日本画の近代化を目指した彼らとともに革新的な作品を多く発表しました。

このときに大観や菱田春草が用いた、輪郭線を用いずに色の濃淡で空気や光などを表現する描き方を「朦朧体」といいます。朦朧体は当時の画壇からは大きな批判を浴びたものの、今日では日本画の発展に大きな影響を与えたとして高く評価されるようになりました。

大観は中国の古典などをモチーフとして取り上げた作品のほか、日本を象徴するような富士山、桜、紅葉など、穏やかな自然を取り上げた作品を多く残しています。計算された構図とみずみずしいタッチ、情緒的な作風が近代日本画の最高峰ともいわれている横山大観は、日本美術院の指導者としても多くの後輩を導き、近代日本画の発展に努めました。

  

 

横山大観の作品について

 

さて、近代日本画の巨匠、横山大観の作品にはどのようなものがあるのでしょうか?その作品の特徴と魅力について見ていきましょう。

 

朦朧体

朦朧体は、岡倉天心の「空気を描くにはどうすればよいか」という問いに答えようとした横山大観と菱田春草が、印象派の絵画から刺激を受けて生み出した表現方法です。初期の大観は朦朧体によってリアルな空気感の表現を追求し、中国の古典などをモチーフとした作品を多く残しました。

空気や光、水蒸気などの形を持たないものも表現でき、独特の幻想的な雰囲気が魅力の朦朧体。なぜ朦朧体は当時の画壇から批判されたのでしょうか?

当時、日本画は墨で輪郭線をひいたうえでその中を彩色するのが常識でした。ところが朦朧体は、印象派のモネやルノワールの作品にみられるように輪郭線を持たないため、伝統的な日本画の描き方を否定するものとして大きく非難されたのです。

また、特に初めの頃の作品にみられる混濁した暗い色調から、「幽霊画」などとも呼ばれました。この頃の「朦朧」という言葉も、濁っている、汚いなどという意味で用いられていたといいます。

 

全盛期の大観

その他、琳派の作品も横山大観の作品に大きな影響を与えました。琳派とは、やまと絵をもとにして桃山時代後期に誕生した流派で、金泥、銀泥を用いた鮮やかな色彩で装飾的に描くのが特徴。大正時代以降に琳派の影響を受けて制作された、装飾的な表現で日本の自然を描いた華やかな作品も大変人気です。

また、水墨画の代表作『生々流転』は、室町時代の雪舟による『四季山水図(山水長巻)』を意識して作られました。雪舟の『四季山水図(山水長巻)』は、春夏秋冬の景色が16mにわたって描かれる作品。一方大観の『生々流転』は、一粒の水滴が川になり、海に流れ込んで最後に龍になる様子が40mにもわたって描かれる迫力のある作品です。

大観は様々な絵画や画材について研究を深めながら、自らの芸術を高めていきました。このような研究を経て生まれた大観の作品は、近代日本画の最高峰ともいわれています。

  

横山大観と富士山

横山大観といえば、富士山を描いた画家としても有名ですね。大観は画業70年弱の中で、なんと1500点以上もの富士山を描いていますが、このことからは富士山に対する大観の思いの深さがうかがえるでしょう。

「富士を描くといういことは、富士にうつる自分の心を描くことだ。」

「己が貧しければそこに描かれた富士も貧しい。富士を描くには理想をもって描かねばならぬ。」 

これは大観の言葉です。大観は富士山を描くことによって厳しく自分と向き合い、理想とする新しい時代の日本画を追求したのでしょう。富士山は大観の永遠のテーマであったともいえます。晩年、病床にあっても絵筆をとり続けた大観の絶筆もまた『不二』でした。

 

 

横山大観の生涯

横山大観は明治元年(1868年)、茨城県に生まれました。大観の父親は酒井捨彦という水戸藩士でしたが、のちに母方の親戚で同じく水戸藩の横山家を継いでいます。

 

初期の横山大観

20歳の頃に絵の勉強を始めた大観は、第一期生として東京美術学校に入学します。ここでは終生の師として仰ぐこととなる岡倉天心との出会いがありました。卒業後は天心の指導のもとで日本美術院の設立に参加します。 

この頃、大観や春草が生み出した「朦朧体」という描き方は、当時の画壇からは厳しく非難されたため、作品が売れずに貧しい生活を強いられたそうです。さらに肉親が亡くなったり、新築した住居が火事になったりと、大観にとって不運な出来事が続きました。

 

黄金時代の到来

明治の終わり頃になると、朦朧体からさらに一歩ふみ込んで色彩の混濁を解消した、鮮やかな色彩の作品が高い評価を得るようになっていきました。一方で日本美術院は経営不振で、さらに指導者である天心が大正2年(1913年)に亡くなってからは、活動停止に追い込まれます。しかし大観は、岡倉天心の志に報いるため、ちょうど天心の一周忌にあたる日に、友人の下村観山と協力して日本美術院の再興させたのでした。

日本美術院の再興がかなった大正時代は、大観の芸術が花開いた黄金時代でもあります。大観は彩色画と水墨画の制作を通して、彩色画の研究を水墨画に、そして水墨画の研究を彩色画に生かしながら自らの芸術を高めていきました。

 

戦中戦後の横山大観

昭和の時代に入ると、大観は戦時下の美術を牽引する存在となっていきました。また、絵筆をもって国に報いようという気持ちが強かった大観。画業50年と皇紀2600年を記念して行われた「横山大観紀元二千六百年奉祝記念作品展」で発表した『山に因む十題』、『海に因む十題』では、売上金を陸海軍に献納したことで有名です。

戦後も日本の美しい自然を描き続けた大観は、昭和33年(1958年)に89歳でこの世を去りました。

 

  

無窮を追う芸術家、横山大観

 

横山大観は、終生の師として仰いだ岡倉天心の「無窮を追う」という言葉を、自らの信条としていたといいます。無窮とははてしないこと、または永遠を指す言葉ですが、大観は自らの芸術をもって無窮を追い、70年弱の画家生活を駆け抜けました。

朦朧体を生み出して日本画界に革命をもたらした横山大観。そして、再興した日本美術院の指導者として安田靫彦や小林古径などの多くの後輩を導いた横山大観は、まさに近代日本画壇を牽引した巨匠といえるでしょう。ところで、大観といえばかなりの酒豪で、醉心という日本酒を「主食」というほどに気に入り、生涯愛飲していたことでも有名です。計算された構図とみずみずしいタッチ、情緒的な作風が近代日本画の最高峰ともいわれている横山大観。大観の作品を前にして、日本酒のお猪口を片手に観賞するというのも、なんとも粋な楽しみ方ですね。